私が今母親となり、子育てしながら日々思うことは、実母への不満ばかりがあふれ出てくる。
決して、暴力などの虐待やネグレクトを受けたわけではなく、愛情を得られなかったわけではない。
しかし、母のずぼらでおおざっぱすぎる性格が幼少期から私を悩ませてきた。
自宅は今でいう汚部屋。足の踏み場がないほどではないが、部屋はいつも物で散乱、食卓のテーブルの上も同様に常に物であふれ、家族で食卓を囲むのが困難な状態。
食事のときには、テーブルのものを端によけてスペースを確保しなければならなかった。
台所のシンクもいつも使い終わった食器でいっぱい。毎食後に洗う習慣はない。使う食器がなくなったころ、使う分だけを洗って使う。
冷蔵庫はいつもギュウギュウに食材が詰められ、当然奥に入っているものは腐って捨てることになる。
買い物から帰宅後、スーパーの袋はそのまま床に置かれたままで、肉や魚などが悪くなってしまっていたこともあった。
たまに掃除機をかけたと思えば、長いコードがコンセントに繋がれたままの掃除機がいつまでもそのまま置かれた状態。
洗濯物は洗濯機を回したまま干すのを忘れ、洗濯機に入ったままの状態の時もあれば、逆に干しっぱなしで次の日まで取り込むことを忘れることもある。たたんでタンスにしまうという行為はもう放棄しているような状態だった。
朝が弱い母は、早起きしても椅子に座ったままぼーっとして動けない。
当然朝食もしっかり作れない。
そんな母をみているとイライラしてしまい、早く起きても何もできないなら意味がない、だったら起きなくてもいいと冷たく言い放った私。
今思えば一応起きてくる母には申し訳ない気持ちもあるが、子供の頃は全く理解できなかった。
起きたらきれいな食卓にきちんと食事が並べられていることが理想だった。
ドラマのようなしっかりとした朝食にあこがれていた。
一応、前日の夜の残りのご飯やパンなども買ってあるため、食べるものがないわけではない。
納豆ご飯やトーストなどを自分で用意し、自分で食べる。
あるときから、母に対する期待を捨て、掃除も洗濯も自分でできることは自分でやるようになった。
そうしないと部屋がいつまでも片付かない。洗濯もあてにならず、着たいときに着たい服が洗われてなかったりする。
もっとしっかりして欲しい。きちんとした母でいて欲しい、そういつも思っていた。
(つづく)